――私は、この感覚を知っている気がする。
自分の体が飲み込まれる。普通に考えれば、死ぬ。
だけど、この感覚は何だろうか。
私のこれまでの人生は終わるのか。
これから始まるのは第二の人生か、それとも新しい神話だろうか――
♦ ♦ ♦
『れ…う
か…れ…りんたろう……』
いまひとつハッキリと聞こえない。自分の名前が呼ばれているのか。夢か現実か、区別がつかない。
『代われ、凛太郎。戦《いくさ》じゃ』
「…ハッ!」
葛原凛太郎《くずはら りんたろう》は、目を覚まして布団から飛び起きた。女のように長くツヤのある髪の毛が、汗で顔にへばりついている。
(また、夢の中であの声が…。しょっちゅう聞いてる気もするし、久しぶりな気もする。誰の声なんだろ。どこか懐かしい感じがするんだけど…)
ふと、時計を見る。
「やっば、遅刻だ!」
凛太郎はシャワーも浴びずに、ハンガーにかけたワイシャツとスーツを羽織って駅に走っていった。
♦
東京都新宿。株式会社ギャラクティカ。もともと2~3人規模の小さなwebデザイン事務所だったが、創業者で現社長の久田松湧慈《くだまつ ゆうじ》の手腕により顧客に恵まれ、一代であっという間に成長。現在はデジタルコンテンツ制作全般とプロモーション、コンサルまで幅広く扱い、業界でもそろそろ中堅から大手の背中が見えてきそうな位置にある。いわゆる「気鋭のIT企業」というヤツだ。
阿賀川七海《あかがわ ななみ》は新卒入社から5年目。現在は制作部デザイン課のチーフデザイナーである。非常に仕事が早く、何よりもルックスがいいため顧客がつきやすい。会社の内外に非常にファンが多い。
今日も朝7時半から七海は手を爆速で動かしながらパソコン画面とにらめっこをし、顧客からの仕事を黙々とこなしている。なんとPCは二刀流。2台別々のPCを同時に操作し、自分の仕事もしつつ、部下の仕事への指示出しとチェックもおこなっている。今やギャラクティカにとってなくてはならない戦力といえるバリバリのキャリア・ウーマンだ(この言葉や概念自体が相当に古臭いものではあるが)。
「おはようございまーす…」
汗をにじませ、照れ隠しの笑顔を浮かべながら、阿賀川七海と同じ職場に、入社3年目の葛原凛太郎が出社してきた。始業9時の2分前である。駅から走って、何とか滑り込みセーフで間に合ったらしい。
「おはよ、クズリン!」
職場の面々が「また遅刻ギリギリか。しょうのないやつ」という思いのこもった笑顔を向ける。凛太郎は七海と違い、バリバリと仕事ができるタイプではないが、それなりに会社の中で可愛がられているようだ。多少、いやかなりオドオドしたところがあるし、顔も髪も背格好も中性的である。営業マンとして、お世辞にも頼もしさを感じられるとは言えないが、人当たりは良く好かれる|性質《タチ》であるらしい。
凛太郎の挨拶は決して誰か一人にのみに向けられたものではない。当然、先に出社しているフロアの全員に対しての挨拶であるが、自然と凛太郎の目は、デザイン部のデスクが集中しているデスク島の一角、阿賀川七海の方に向く。ひょっとして今日こそ、七海がこちらを向いて、にっこり笑って「おはよう」と返してくれはしないだろうか。自然と顔が赤くなる。
だが、現実は甘くなかった。七海は無言のまま、画面から顔も上げずにPC作業に没頭している。別に凛太郎に対してだけではなく、業務中はいつもこんな感じである。ほとんど常時“ゾーン”に入っているような仕事の鬼。それが株式会社ギャラクティカの美しき女エース、デザイン課チーフ・阿賀川七海なのだ。
(今日も相変わらずクールだこと…さすがデザイン課の「氷の女王」)
凛太郎はさらに冷や汗をかく。
(だけど…ちょっと変な感じだな。いつもより顔に影があるし、思いつめた感じがする。何かあったのかな?)
凛太郎は人の様子の変化には敏感な方である(営業マンとしてギリギリ生き残れているのは、この特技のおかげかも知れない)。なおさら、入社当初から密かに思いを寄せている、自分の憧れの先輩である七海の雰囲気に暗い影があればすぐに分かる。人は、自分がアンテナを張って注意を向けているものに何かしらの変化があれば、それがたとえ細かな変化であっても実によく気がつくものだ。
さて、七海の様子がどこかおかしいことには気づきながら、業務中に声をかけるタイミングは当然そうは見つからない。今日の凛太郎は午前中は外回りの予定はなく、メールや電話で来た問い合わせに目を通し、こちらから電話をかけて軽く説明をするなり、訪問のアポイントを取るなりといった電話営業をしていた。あっという間に時間は経ち、昼休みが来た。
ギャラクティカのオフィスは新宿の中でも西新宿と呼ばれるエリアにある。凛太郎はほとんどいつも、行きつけのレストラン『カルメン』にて昼食をとる。新宿にある、本格的なジビエ(狩猟によって採れる肉。猪、鹿、熊などが代表的)料理と世界各国のおいしいワインが売りの店だが、決して敷居の高い店ではない。お昼は新宿のサラリーマン向けに格安のランチもやっている。凛太郎が最近ハマっているのはワニ肉の炒め物定食。ワニ肉はクセがなく淡白な味で、ジビエ初心者でも食べやすい。ちなみにポン酢がよく合う。
「なぁ、クズリン。女王様の噂聞いたか?」
『カルメン』にて、ワニ肉をひと口、口に運ぼうとした凛太郎に話しかけてきたのは、若生《わこう》|博光《ひろみつ》である。この若干胡散《うさん》臭い関西弁の男は凛太郎の2つ年上で、同じ営業部の先輩にあたる。茶髪で軽薄そうに見えるが、世話好きで面倒見の良い性格で、何かと後輩の凛太郎のことを気にかけてくれている。
「え、何ですか。阿賀川さん、どうかしたんですか」
「…彼女なあ。辞めるらしいで、会社」
凛太郎は箸からワニ肉をポロリと落とした。
「本っ当に分かりやすいやつやな。どうすんの。…このままコクるチャンス永遠に逃してええの?」
「なななな何のことでしょうか!???」
「トボけんでええって。だてに何年もお前の先輩やっとらんわ。てゆーか会社のみんなにもバレバレやねん!」
「えーー!!!」
凛太郎は恥ずかしさで顔が耳まで真っ赤になった。
♦
凛太郎が若生《わこう》から、七海が会社を辞めるかもしれないという話を聞いた日の翌週。たっぷり数日間さんざん迷った末、木曜の夜にようやく凛太郎は阿賀川七海にRINE《ライン》チャットでメッセージを送った。凛太郎はギャラクティカが小規模の会社で本当に良かったと心底思っている。社員の人数が少ないので、忘年会など社員一同で会したときにお互いの距離が近く、社内のアイドル的存在である七海とも自然に連絡先は交換できていた。また、七海はその美貌を鼻にかけるようなところは一切なく、仕事中以外では凛太郎を含め誰とでも分け隔てなくコミュニケーションをとる。そういうところも、会社内外でファンが多い理由である。
以下がクズリンこと葛原凛太郎と、Nanamiこと阿賀川七海の、その木曜のよるのRINEのやり取りである。
【クズリン】
『阿賀川さん折り入って相談したいことがあります。明日金曜の終業後、お食事ご一緒できませんか?』
(会社を辞めるという噂は本当かどうかを確かめたい、ってのも立派な相談だよな…)
こういう時は既読になるまで気になってしょうがなく、既読になったら返事が来るまでがまた長いものである。体感にして約5時間後―実際にはものの30分くらいであろうが―やっと既読になる。さらに体感では永遠にも感じられる時間ののち、「ピコン」と通知音がなる。
(返事が来た!)
凛太郎は光の速さで携帯をつかむ。
【Nanami】
『ちょっと仕事がたまっているのですが、8時からならいいですよ(●'◡'●)』(やった!意外とあっさりうまくいった。絵文字まで…)
こういう時の男子の心境のことを、「有頂天」という。
【クズリン】
『ありがとうございます‼では、8時にカルメンでいいですか?ご馳走させてください!』
(「カルメン」には夜は本格的なディナーコースのメニューがある)
【Nanami】
『気を使わなくていいですよ!では明日8時に。』凛太郎はあまりの嬉しさに、神経が高ぶってなかなか寝付けなかった。この男の会社への遅刻癖は、当分治りそうにない。
♦
翌日の終業後。凛太郎は『カルメン』に先に席を取り、阿賀川七海の到着を待っていた。心臓が痛いほど緊張している自分が情けない。
夜8時ちょうど。店に入ってきた七海の姿に気づいて、凛太郎が手を振る。
「阿賀川さん、こっちです。」
「…葛原君。お疲れ様です。」
やはり、七海の顔には陰りがある(ように凛太郎には見える)。
「すみません、無理にお呼びだてしてしまって。お腹減っているかなと思って、料理は先に適当に頼んどきました。支払いは先に済ませてますので、気にしないで下さい。もちろん追加でも頼んでください!ボクが全部払いますから。」
「ありがとう。気を遣わせちゃってごめんね。正直、助かる。ちょっと余裕がなくて…
それで、相談ってなあに?」凛太郎は、初球ど真ん中のストレートにうろたえ、腰が引け気味になる。
「えーとですね、その…
阿賀川さん、会社辞めるって噂を聞いたんですけど。本当なんですか。」「…んー。誰に聞いたの?」
「…若生さんです。総務の小畔《こあぜ》さんから聞いたって」
「もう…ミキちゃん口が軽い。辞めるかもしれない、って話です。ちょっとだけ長く休む可能性が一番高いのかなぁ。」
「そうなんですね…。」
凛太郎は内心ホッとしている。これからも、阿賀川七海と同じ会社で働ける可能性の方が高いのか。それにしても気になる。彼女に付きまとうこの暗い雰囲気は、ちょっと尋常ではない。
デザイン部の『氷の女王』などと冗談半分に言われているが、それは雰囲気がクールというだけで、決して陰気な女というわけではない。仕事中は張り詰めた空気を出していることも多いが、コミュニケーション力には非常に長けており、だからこそ社の内外から信頼が篤いのである。
「あの…理由とかって、訊いてもいいですか。」
「理由か。あのね…」
七海はたっぷりと間を取ってから話し始める。
「――私ね。多分、癌なんだ。乳がん」
予想もしなかったヘビーな内容の答えに、凛太郎の脳みそはフリーズした。
(つづく)
「――私ね。多分、癌なんだ。乳がん」七海の口から予想外の答えを聞いて、凛太郎の脳みそは一瞬、活動を停止した。 入社早々、営業部の先輩である若生から、新入社員の歓迎会の時に「彼女、有名人やで」と阿賀川七海のことを知らされたが、その瞬間は凛太郎25年の人生で初めての”一目ぼれ”であった。阿賀川七海は確かに美人である。しかしそれ以上の『何か』を凛太郎は強く感じ、強力な引力に吸い寄せられるかのように惹かれていった。 だが同時に、あまりにも相手が高嶺の花過ぎるとも感じていた。かたや会社のアイドルでチーフデザイナー。仕事は抜群にできて人望も篤い。それと比べて自分は…営業成績は常に最下位争いばかり。不思議と社長を含むまわりの人に愛されているから社員を続けているだけで、普通ならいつクビにされてもおかしくないはずだ。人としての格差がありすぎるという理由で、凛太郎は七海に対して、自分の思いをうち開けることはしなかった。どれだけ苦しくても、このまま社内に大勢いる「阿賀川七海ファン」のうちの一人のままでいいと思っていた。 ところが今回、突然の七海の退社の噂を聞いて、七海と会えなくなるのは絶対に嫌だという思いが、この遠慮の気持ちを打ち破った。もし彼女が本当に会社を辞めるのなら、自分の思いを伝えよう。本来、なぜ営業マンを続けられているのかわからないほど奥手である凛太郎にとって、この決断をするだけでも実に膨大なエネルギーを使ったのである(少なくとも本人はそう感じていた)。 だが今、凛太郎は心底後悔していた。自分の惚れた腫れたという感情だけでしかモノを考えていなかった己れの浅はかさが、心底憎かった。決して体力に自信がある方ではないが、健康体である凛太郎にとって「癌」という言葉は新鮮ですらあった。それほど凛太郎の自分史において馴染みのない言葉であった。自分が思いを寄せている相手は、まったく予想外のものと、おそらくは大いなる深刻さをもって戦っていたのである。「……」凛太郎はなかなか言葉を発することができない。「ごめんね。リアクションに困っちゃうよね。…胸に…しこりがあってさ。今度、きちんと検査するんだけど、ほぼ間違いないでしょうっ、だって」「…そう…ですか…」「…乳頭にね。少しでも癌細胞があると、全摘出なんだって。全部取っちゃわなきゃいけないの。」「…」「私、しこりの場所が
「――私ね。多分、癌なんだ。乳がん」七海の口から予想外の答えを聞いて、凛太郎の脳みそは一瞬、活動を停止した。 入社早々、営業部の先輩である若生から、新入社員の歓迎会の時に「彼女、有名人やで」と阿賀川七海のことを知らされたが、その瞬間は凛太郎25年の人生で初めての”一目ぼれ”であった。阿賀川七海は確かに美人である。しかしそれ以上の『何か』を凛太郎は強く感じ、強力な引力に吸い寄せられるかのように惹かれていった。 だが同時に、あまりにも相手が高嶺の花過ぎるとも感じていた。かたや会社のアイドルでチーフデザイナー。仕事は抜群にできて人望も篤い。それと比べて自分は…営業成績は常に最下位争いばかり。不思議と社長を含むまわりの人に愛されているから社員を続けているだけで、普通ならいつクビにされてもおかしくないはずだ。人としての格差がありすぎるという理由で、凛太郎は七海に対して、自分の思いをうち開けることはしなかった。どれだけ苦しくても、このまま社内に大勢いる「阿賀川七海ファン」のうちの一人のままでいいと思っていた。 ところが今回、突然の七海の退社の噂を聞いて、七海と会えなくなるのは絶対に嫌だという思いが、この遠慮の気持ちを打ち破った。もし彼女が本当に会社を辞めるのなら、自分の思いを伝えよう。本来、なぜ営業マンを続けられているのかわからないほど奥手である凛太郎にとって、この決断をするだけでも実に膨大なエネルギーを使ったのである(少なくとも本人はそう感じていた)。 だが今、凛太郎は心底後悔していた。自分の惚れた腫れたという感情だけでしかモノを考えていなかった己れの浅はかさが、心底憎かった。決して体力に自信がある方ではないが、健康体である凛太郎にとって「癌」という言葉は新鮮ですらあった。それほど凛太郎の自分史において馴染みのない言葉であった。自分が思いを寄せている相手は、まったく予想外のものと、おそらくは大いなる深刻さをもって戦っていたのである。「……」凛太郎はなかなか言葉を発することができない。「ごめんね。リアクションに困っちゃうよね。…胸に…しこりがあってさ。今度、きちんと検査するんだけど、ほぼ間違いないでしょうっ、だって」「…そう…ですか…」「…乳頭にね。少しでも癌細胞があると、全摘出なんだって。全部取っちゃわなきゃいけないの。」「…」「私、しこりの場所が
――私は、この感覚を知っている気がする。 自分の体が飲み込まれる。普通に考えれば、死ぬ。 だけど、この感覚は何だろうか。 私のこれまでの人生は終わるのか。 これから始まるのは第二の人生か、それとも新しい神話だろうか――♦ ♦ ♦『れ…うか…れ…りんたろう……』いまひとつハッキリと聞こえない。自分の名前が呼ばれているのか。夢か現実か、区別がつかない。『代われ、凛太郎。戦《いくさ》じゃ』「…ハッ!」 葛原凛太郎《くずはら りんたろう》は、目を覚まして布団から飛び起きた。女のように長くツヤのある髪の毛が、汗で顔にへばりついている。(また、夢の中であの声が…。しょっちゅう聞いてる気もするし、久しぶりな気もする。誰の声なんだろ。どこか懐かしい感じがするんだけど…)ふと、時計を見る。「やっば、遅刻だ!」凛太郎はシャワーも浴びずに、ハンガーにかけたワイシャツとスーツを羽織って駅に走っていった。♦ 東京都新宿。株式会社ギャラクティカ。もともと2~3人規模の小さなwebデザイン事務所だったが、創業者で現社長の久田松湧慈《くだまつ ゆうじ》の手腕により顧客に恵まれ、一代であっという間に成長。現在はデジタルコンテンツ制作全般とプロモーション、コンサルまで幅広く扱い、業界でもそろそろ中堅から大手の背中が見えてきそうな位置にある。いわゆる「気鋭のIT企業」というヤツだ。 阿賀川七海《あかがわ ななみ》は新卒入社から5年目。現在は制作部デザイン課のチーフデザイナーである。非常に仕事が早く、何よりもルックスがいいため顧客がつきやすい。会社の内外に非常にファンが多い。 今日も朝7時半から七海は手を爆速で動かしながらパソコン画面とにらめっこをし、顧客からの仕事を黙々とこなしている。なんとPCは二刀流。2台別々のPCを同時に操作し、自分の仕事もしつつ、部下の仕事への指示出しとチェックもおこなっている。今やギャラクティカにとってなくてはならない戦力といえるバリバリのキャリア・ウーマンだ(この言葉や概念自体が相当に古臭いものではあるが)。 「おはようございまーす…」 汗をにじませ、照れ隠しの笑顔を浮かべながら、阿賀川七海と同じ職場に、入社3年目の葛原凛太郎が出社してきた。始業9時の2分前である。駅から走って、何とか滑り込みセーフで間に合ったらしい。 「おはよ